3月24日(木)  教わり、育まれる

 卒業式、つつがなく終了。今年度もいい別れができました。ただ、難関に挑戦していた、とある学生からの芳しい知らせは届かず…来年度に持ち越しのよう。私は何も力になれず…忸怩たるものがあります。

 それはさておき、卒業生と飲み会でしゃべりつつ、自分のできることの小ささを痛感します。そして、何かできる、なんていう思いのおこがましさ、図々しさを恥じます。学生は自ら育っていくもの。教育とは、間違っても教師が(学生に)教え(学生を)育むものではなく、教師が(学生に)教わり(学生に)育まれ、(学生は自ら)育つものではないかとの理解、解釈を強めている昨今です。

 さらに固い話になりますが、私にとって日本語教育とは「日本語」教育ではなく、日本語「教育」。つまり、日本語ではなく教育に力点があります。すなわち、日本語を教えることではなく、日本語を通した教育のことというのがここ数年の私のとらえ方であり、発表の機会があれば常にそう語っています。そして、情報機器が発達し、わざわざ来日して学校にも通わなくても済み、母国での学習機会が増えていく今後、語学や知識としての日本語教育の役割は薄れ、(人間)教育の一環としての日本語教育の役割が高まっていくだろうと思います。思い込みが強いぞと言われようと、私はそう思うのです。この点について、もう少し考えてみたいところです。
by 1220hagiwa | 2016-03-24 23:54 | 本 編 2016